Archive for December 2005

31 December

2005年を振り返る

いよいよ2005年もあと一日。
月並みな企画だが、10大ニュースで今年を振り返る。
そう、ネタがないからだ。

なお、10大ニュースの選出は共同通信のまとめによるラジオ・テレビ契約社の編集責任者らの合同投票で選ばれた国際、国内10大ニュースによる。
12月15日発表のため、投票集計後に判明した「初の人口減社会に」は番外に追加されている。

国内10大ニュース

(1)衆院選で小泉自民党が296議席の歴史的大勝

確かにこれは驚いた。
日本、これで大丈夫なのかと思った。
そんなに大多数の国民がこんなに無条件に自民党を信任してしまっていいと思っているんだろうか。
全ては小泉首相を主人公にした対立構造をあおったマスコミの偏った報道にあるのではないかとの疑念もわいている。
裏でアメリカから数千億の資金援助があって、自民党はその資金を電通にぶち込み、小泉PRに使ったなんて陰謀説もある。

(2)尼崎のJR西日本脱線事故、107人が死亡

愉快なニュースではない。
しかし、あの後のマスコミによる連日のJR叩きのほうが不愉快だった。

(3)耐震強度の偽装で不安広がる

これははっきり言ってもうどうでもいいと思う。
少なくとも連日報道する価値はない。
えてして年の後半以降に出たニュースの方が上位に来るものである。

(4)郵政民営化法が再提出され成立

それほど重大なニュースなのか、これ。

(5)アスベスト(石綿)被害深刻に

騒ぎ始めたのが今年だというだけである。

(6)ネット企業とテレビ局の経営めぐる攻防激化

楽天とライブドアである。
こう考えるとソフトバンクとテレビ朝日はずいぶんと先見の明があったのだなぁ。

(7)少年、少女をめぐる残虐な事件が相次ぐ

これもなんとなく年の後半に相次いだから出てきたような気がする。

(8)小泉首相の靖国参拝で中韓との関係冷却

今年に限った話ではない。

(9)有識者会議が女性・女系天皇容認の報告書

これもそんな大変なニュースだとは思えないが。

(10)景気の踊り場脱却で株価一時1万6000円台に

確かに市場は引き続き好調を維持している。

〈番外〉日本人の人口が初の減少

あくまでも自然減のことである。
実は第2次世界大戦の頃に大きく減少しているが、あえてみんな話題にしないらしい。



国際10大ニュース

(1)ロンドン、バリ島など各地で大規模テロ

イギリスもインドネシアも日本でテロが起きないのはなぜなのかを研究すべきではないだろうか。

(2)イラクで政治プロセス進むがテロで情勢泥沼化

アメリカはイラクからさっさと手を引いて北朝鮮で同じことをすればいい。

(3)パキスタン北東部の大地震で犠牲者7万人超

映像を見る限り誰も地震対策なんてしてなかったんだろうと思った。

(4)原油価格が高騰、一時1バレル70ドル突破

世界の資源をがぶ飲みする中国を何とかすべきだと思う。

(5)ハリケーン「カトリーナ」が米国南部に大被害

映像を見る限り誰も台風対策なんてしてなかったんだろうと思った。

(6)鳥インフルエンザ感染拡大、新型インフルに懸念

何十年に一度のインフルエンザ大流行がまた来たということらしい。
それよりSARSは結局どうなったのか知りたい。

(7)北朝鮮の核保有めぐり6カ国協議で共同声明

これ、そんなに重要なニュースだろうか。
また破棄するに決まってるだろうし。

(8)中国各地で激しい反日暴動

そういう教育をしてるんだからしょうがない。
どうやら裏で中国当局は火消しに躍起になっていたらしいが。

(9)米ブッシュ第2期政権発足、支持率低落

支持率が上昇する材料がないんだから仕方あるまい。

(10)中国が通貨人民元を切り上げ

ごく僅かで切り上げたうちに入らないと思うが。

こうしてみるといくつかの大きなニュースがまずあって、それに付随するニュースが別項目立てになって10大ニュースになった感がある。
いくつかの大きな出来事が席巻した、そんな年だったのかもしれない。

個人的に10大ニュースに追加したいのは「プロレスラー急死相次ぐ」である。
7月の橋本真也、11月のエディ・ゲレロ。
二人ともまだまだこれからだという若さなのに。
非常に残念だった。
自分も健康には気をつけなければ。

それでは皆さん、良いお年を。

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30 December

東西比較再び その5

よくもまぁ同じネタで毎日書くことがあるものだと感心することしきり。
しかし残念ながらここでこのシリーズはいったんおしまいである。

さて、いよいよ今年もあとわずかとなってきた。
大晦日カウントダウンで盛り上がり、新年となればまだ暗いうちに初詣に行く。
初詣で新しいお守り・お札・破魔矢等を買って、去年までの古いお守り・お札・破魔矢等を神社に返してくる。焚き上げをしてもらうのである。
焚き上げの風習も地域によって異なり、お正月の注連飾りや門松の類と一緒にどんど焼きや左義長とか呼ばれる1月15日の小正月前後に焚き上げることもある。

ところで、ほぼ同じことを節分のときにやらないか。

もちろん、豆まきの有無は大きな違いだ。
海苔屋と寿司屋の陰謀にスーパー・コンビニが巻き込まれて最近全国に広まった「丸かぶり太巻き」の習慣も違いではある。
関西から始まった風習で、自分がはじめて関西に行ったときにはとても驚いたものだ。自分が関西を離れ就職して以降、関東にも広まってきた。

しかしそれ以外のイベント、特に神社またはお寺におまいりに行く習慣から考えたい。

そうそう、大晦日と節分て豆をまく以外は同じようなことをするよな、なんて思う人はたいてい関西以西出身である。

一方で関東出身者にとっては節分といえば豆をまくくらいのイベントでしかない。

京都にいた頃の節分はかなり大掛かりなイベントであった。
立春の前日から一晩中、大きな神社には大晦日同様屋台が出て、前の年に買ったお守り・お札・破魔矢等をもっていき、焚き上げしてもらう。
お正月の注連飾りや門松、だるまや書初めをこのタイミングで燃やしてしまうところも多い。
神社では抽選会なども行われ、ある意味大晦日以上に盛り上がるイベントである。

しかし、節分の夜、関東の神社には誰もいない。
豆をまいておわりで、後はまったく盛り上がらない。
(関東の一部にも夜店も出るような節分祭を行う地域もあるらしいが、一般的ではない)

うちのヨメは関東に来たばかりの頃、古いお札を持って節分の夜最寄の神社出かけていき、真っ暗で人っ子一人いないその光景に呆然としたという。
この古いお札は一体どうしたらいいんだ、とやり場のない戸惑いに身を震わせたという。

当たり前だと思っていたことが行われていない。
これは大きな衝撃である。

節分祭・夜店等のキーワードでググッたりして色々調べてみたが、節分の違いについて節分祭の夜店の有無で分析したものはない。
ただし、節分祭と夜店のキーワードに関連性のあるページはそのほとんどが関西以西発のものである。

おそらく世間には2タイプの人しかいない。
「節分に夜店が出るなんてこれっぽっちも思っていない人」と
「節分に夜店が出るのが当然だと思ってまったく疑わない人」だ。
だから節分に夜店が出ることの有無とその地域差に疑問を持ったことのある人などほぼ皆無なのだろう。

ところで、関東と関西という言い方について思うことがある。

「自分は関東出身です」という人はほぼ東京出身ではない。東京の人は「東京出身」という。
(身を守るためにあえて東京出身を伏せておく場合を除く)
横浜出身の人は横浜出身と宣言するが、千葉や埼玉の人は関東出身ということの方が多いような気がする。
「自分、東京出身なん?」なんて関西人に聞かれても、この場合の自分が誰のことなのかピンと来ないので「はぁ」なんて生返事をしてしまう。

また、「自分は関西出身です」という人は大阪の人ではない。大阪の人は大体「大阪出身」という。
京都の人や神戸の人は比較的「自分は関西出身」と言うことが多いように感じる。
ガサツな東京人に「関西ってことは大阪出身でしょ?」なんていわれるとムカつくので「いや、京都出身です」とか「神戸は大阪と違うんだけど」なんて強調することもある。

いずれにせよ東京・横浜だろうが京都・大阪・神戸だろうが、その市内出身でない人々、近隣地域や衛星都市に住んでいる人は、どうしても関東ですとか関西ですとか答えざるを得ないのだが。


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29 December

東西比較再び その4

まだ東西比較で楽しんでみる。

「あぁっ」とか「おおっ」等のいわゆる感嘆詞でもその地方性が出る。
関西の人が良く使う感嘆詞で
「うーわ!」
「いーや!」
というのがある。

独特のイントネーションとか節回しとかいったもので実際の音により近い表現を試みるなら、
「うぅぅーわっ!」
「いぃぃーやっ!」
という感じである。
どちらも驚いたとき、特に意に反した状況が発生したときに使い、ほぼ相互補完的な用法ができるが、「うーわ」の方が単純に驚いた感じが強く、「いーや」の方が否定的な表現であるやに感じる。
が、ネイティブじゃないのでいささか間違って受け止めているかもしれない。
「実は今日百万円持って来てんねん」
「うーわっ!帯封ついてるわ!」
「ここで抜き打ちテストをやるぞー」
「いーやっ!聞いてへんわ!」
といった感じだろうか。

最近ではTVなどでダウンタウンの二人がよく使っているのを目にする。
いや、耳にするというべきか。

関西人はあれが関西弁であるとはほとんど自覚していない模様。
なかなか使い勝手が良いのでそのうち全国区になるかもしれない。

関西弁には残っているが、標準語から消えた言葉というのもある。

高校の古典の時間などに習う古文文法で
「え〜ず」
というのがある。
副詞「え」と打消「ず」が呼応して不可能を表す表現である。

例えば「え許させ給はず」なら「お許しになることができない」という意味になる。

古文の時間が苦手だった人には考えるのもつらいところだが、あえて文法分析すると、副詞「え」+動詞「ゆるす」未然形+尊敬「す」連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」未然形+打消「ず」終止形となり、最後の打消「ず」が副詞「え」と呼応して不可能を表すというところか。

ところで、関東の高校でも予備校でも、自分が古文を習った範囲においては「現代語においてこの「え〜ず」のような可能+動詞+打消=不可能のパターンはなくなった」と習った。

ところが、関西に行ってしばらくたったある日、そのパターンが脈々と生きていることに気づいたのである。
何気ない会話で聞き流していた表現が、実は古文で(それも絶滅したと)習った表現であったことに驚いた。

「よう〜せん(しない)」である。

例えば「よう言わん」である。
標準語だと「言えない」にあたる。

並べて書いてみると次のようになる。
古文  え  言は ず 
関西弁 よう 言わ ん(わ)
標準語    言え ない

接頭語である副詞「え」に代わる関西言葉が「よう」であることがわかる。
これに気づいたときは感動した。
その後しばらく「その日はよう行かんなぁ」なんていわれるたびに「おお「え行かず」だっ!」等と内心興奮したものである。

さすが、歴史のある都市に息づいている言葉は違うなぁと関西言葉の奥深さを再認識したのだった。

その点、標準語は所詮明治以降の浅い歴史しかないもんね。

このまま年内東西比較で引っ張ろうという野望。

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28 December

東西比較再び その3

東西比較が面白いので続ける。

京都に行って驚いた表現は他にもある。
特に違和感を感じるのは、標準語にも存在する表現でありながら、用法がやや異なっている言葉である。

先日の例で言えば「なおす」がそれにあたる。

それが東京の人間であれ、地方の人間であれ、使っている本人はその用法に地域性があるとは思っていない。
むしろ標準語だと思っているところに難しさがある。

まだ京都に住み始めて間もない頃、銀行にこんな貼り紙があった。
「ATMを増設しましたので、せいぜいご利用ください」
この「せいぜい」の用法にものすごく違和感を感じた。

関西人でも最近の若い世代には違和感を感じる者もあるようだが、この「せいぜいご利用ください」と言う表現、関西方面に多く、関東では見かけない表現なのである。

関東方面では同様の場合、「ATMを増設しましたので、ぜひご利用ください」と書くであろう。
少なくとも「せいぜいご利用ください」は見たことがない。

辞書には「せいぜい」の項には2通りの用法が載っている。

用法の1は「力の及ぶかぎりつとめはげむさま」であり「できるだけ」「精いっぱい」等の言い換え例が載る。
用法の2としては「十分に見積もってその程度であるさま」のことであり、「たかだか」が言い換え例として載っている。

で、上記の銀行の例は用法の1である。
用法としてまったく正しい。
「できるだけ」ご利用くださいという意味である。

ところが、一般的に「せいぜいがんばってください」なんて表現をするとわかるとおり、非常に皮肉めいた文脈で使われることが多い。用法2の「たかだか」の「大したことではない」というニュアンスにも通じるものがあるのだろう。

そういった意味では上記のATMコーナーの貼り紙はものすごく失礼な表現とも受け取れる。
やや強調気味に補足するが、お客様に対して「ま、お前らにどれだけ使いこなせるかわからんが、使うだけ使ってみろ。どうせ大した使い方はできやしないだろうけどな。」と言っているように受け止められるのである。

試しに「せいぜいご利用ください」でググってみると、約250件ヒットして、上位はほとんど関西エリアの話題である。
ちなみに自分と同様「せいぜいご利用ください」の用法にかかわる疑問について言及しているページもヒットしたが、正解にはたどり着いていない。

標準語に似た言葉なのに用法が微妙に違う言葉は他にもあるが、京都弁でひとつあげるとしたら「○○するし」だ。

通常、標準語では「○○するし、○○するし」のように行動を並列するときに使われることが多い。
しかし、京都弁では「○○するから」と言う意味で使う。

例えば「明日東京行くしな、早よ寝なあかんねん」みたいに使う。
関東人としては東京に行く以外にどのような用事があるのを理由に早く寝てしまうのかとても気になる。
一方で「お酒飲むし、ご飯食べるし」といったら行動を並列する通常の用法だ。

だから関東人にとってはとても読み取りが難しい。
「今夜食事でもどう?」と誘って、
「今日は家帰ってご飯食べるし」なんて言われても
「・・・あなたのことも嫌いだし」につながるとも限らないしつながらないとも限らない。

これはしかし、京都弁に限ったものではないが。

うむ、なんかノッてきた。
東西比較、まだ続くぞ。

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27 December

東西比較再び その2

東西の比較その2である。

方言と共通語の話題でよく例に挙げられるといえば「すてる」と「ほかす」である。

この話題になると、
「東京の人が大阪に来て「これ、ほかしといて」と言われ意味がわからず「保管しといて」だと思ってゴミを大事に保管してしまう」
と言うあまりにも有名なエピソードが語られる。
昔、小学校の国語の教科書にも載っていたほどである。

ちなみに自分は東北出身の小学校の先生に「これ、なげといて」と言われて、ゴミ箱に向け力いっぱい放り投げた経験がある。

しかし、むしろ関東人が関西へ行っておろおろするのは「これ直しといて」である。

西日本の広い地域で「片付ける」という意味で使われる。
広辞苑にも「直す」の項に片付けるという語意が掲載されているが、(近畿・中国・九州などで)という注釈がついている。

この場合厄介なのは、西日本の人々は「直す」が標準語として正しい用法であると信じて疑わない点と、関東人は「直す」と言う言葉を「片付ける」と言う意味ではまったく使わない点である。

関東人は「それ、直しといて」と言われた場合、それが故障しているものであり、修理を命じられたものと考える。
「そこに出てる掛時計、直しといてんか」なんていわれると大変である。「いや、僕、機械音痴なので」なんて答えてしまい、まったく会話がかみ合わない。
「脱いだままの服を直しなさい」なんていわれると、針と糸を用意した上でほつれを探したりするのである。

一方で関東人がそれをかたくなに標準語であると信じて疑わないのが「片付ける」という意味で使われる「かたす」である。
広辞苑を見てもこれが方言であるとは書いていないが、関東以外では通じない。最近はTV等の影響で多少は通じるかもしれないが、まったく使われない言葉である。

「おい、それかたしといて」なんていわれて何のことだかわからないで呆然としていると、「何ボーっと突っ立ってんだよ、ちゃっちゃとやれよ」なんて東京弁でまくし立てられたりして、とても悲しくなったりするのである。
東京弁で乱暴な言葉遣いをされると、ただでさえ冷たい標準語でさらに冷たくされたような気がして、地方出身者はとても悲しい気持ちになるのである。

そのまた一方でいくらきつい表現をされても関東人がまったくピンと来ないのが京都弁である。
いくら皮肉を言われても京都弁のあのトーンで言われるとまったく皮肉に感じないらしい。
大阪の「○○せえへん」が京都で「○○しいひん」に変わる、その言葉の柔らかさが都のみやびた風情をかもし出しているのだが、関東人にとってはどれも「大阪弁」である。

「関西だから値切り交渉しなくちゃ」などと大阪も京都もごっちゃにして、錦市場あたりで京野菜買うのに値切ったりすると「お客さんしっかりしてはりますな」なんていわれたりする。
で、この関東人は「いやぁ、しっかりしてるってほめられちゃったよ」なんて素直に喜んだりするからたまらない。

確かに京都で「泥棒に入られた」なんて話をする時に「○○はんとこ、泥棒はんはいらはってんて」なんて表現したりする。
泥棒を敬称で呼んだ上に「はいらはる」である。
なんで泥棒にまで敬語なのか関東人には理解できないであろう。
京都人にとっては単なるです・ますと同じ丁寧語なのだが。

そもそも関東人は京都と大阪と神戸が同じだと信じて疑わない。
中には名古屋から西はすべて大阪だと思っている者までいる。
名古屋は大阪と変わらないと思っているのである。
こういう者はほぼ間違いなく広島以西九州まで全部大阪である。
博多弁を聞いても大阪弁だとしか感じない。
ちなみに彼らにとって北関東以北はすべて東北である。

関西にいると三都の明確な違いがはっきりわかるのだが、関東に住む者は新宿と渋谷と池袋くらいの違いにしか思っていない。
せめて千葉とさいたまと横浜くらいの違いには思って欲しいものだが、東京に住んでいる者の場合は千葉もさいたまも横浜も東京の植民地に過ぎないのでやはり感覚がつかめない。

必要以上に情報の発信地が東京に集中しているせいで、地方に行くと東京の情報ばかりがあふれている。
地方局で「たまに行くならこんな店」なんて企画で山の手線内のレストランを紹介されてどうしようと言うのだろうか。
週刊誌で忘・新年会はここがお勧めなんて新橋の居酒屋紹介されてどうするのだろうか。

東京に住んでいる者は東京しか見ていない。
関東人であっても状況はほぼ同じである。
地方のことなんかこれっぽっちも考えていないし、知らない。
それでも東京にあこがれて東京人になりたがる人々のなんと多いことか。

そして東京人は東京を捨ててアメリカ人になりたがったりするから可笑しい。


東西比較はまだ続く。

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