31 August

被差別の食卓1/22

しばらくぶりのブックレビュー。

出張中、移動時間に読み終えた。
被差別の食卓
被差別の食卓
新潮新書
上原 善広 (著)

単純に面白かった。
食べ物の地域性についてはよくこのブログでも取り上げているように、地理的境界により地域ごとの独自性が生まれてきた。
しかし、「被差別」という社会的境界によっても独自性が形成されており、それはどこの国においても同様に生じているのである。
こういった視点は自分にとってとても新鮮だった。

あちこちに取材に行くついでに少しずつ採り集めた情報をひとつの本にまとめたということのようである。


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はじめての部落問題1/26

ついでにこんな本も
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166604783/qid=1138242174/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-9014835-3057919
はじめての部落問題 文春新書
角岡 伸彦 (著)


 はじめての部落問題
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弱者とは何か2/15

たまにはブックレビュー。

ちょっと前に読んだ本だが、先日の東横インの話題とも関係が深いのでもう一度読み返してみた。
null「弱者」とはだれか
「弱者」とはだれか
PHP新書
小浜 逸郎 (著)

「弱者」を守ろうというスローガンは正しい。
しかし「弱者」を規定する基準はあまりにもズサンで、だから差別の実態に沿わない制度が生まれたり、過剰配慮で行き過ぎが生じたり、あるいは弱者を必要以上に聖化したりする、と指摘する。
本書ではそれだから、もう少し弱者の「差別される要因」を気軽なものにして、相互理解や対話を進めていくべきだ、というのが結論である。
第1章 「言いにくさ」の由来(「弱者」というカテゴリー
個別性への鈍感さ ほか)
第2章 「弱者」聖化のからくり(建て前平等主義
部落差別をめぐって)
第3章 「弱者」聖化を超克するには(共同性の相対化
言葉狩りと自主規制問題)
第4章 ボクもワタシも「弱者」(既成概念の見直し
新しい「弱者」問題)

総論賛成。
理屈は通っていて、わかりやすいと思った。

でも、あちこちのレビューを見るとこの本、批判も多い。
筆者が本書の中でも言っているが、このテの問題を論じるとき、差別や弱者に対する率直な思いを発言しようとしても、「言いにくさ」やいわゆる「自粛の圧力」のようなものが言論を支配しているのでなかなか賛同を得られないのではないかと感じた。


例えば筆者が自身の「感覚的な理解」を再現し、多くの読者にそれを理解してもらうため、レトリック的にいささか単純かつ過激な表現で「差別の構造」を明らかにしようとするのだが、このあたりがどうも納得がいかないと批判されている。

第1章 「言いにくさ」の由来(「弱者」というカテゴリー
個別性への鈍感さ ほか)
第2章 「弱者」聖化のからくり(建て前平等主義
部落差別をめぐって)
第3章 「弱者」聖化を超克するには(共同性の相対化
言葉狩りと自主規制問題)
第4章 ボクもワタシも「弱者」(既成概念の見直し
新しい「弱者」問題)



でも、「ボクもワタシも「弱者」」という表現で弱者の問題を当事者として受け止めよう、という主張は誤解を受けるだろうなと。
じゃ、一方で僕も私も強者だ、と思うのはどういうときかな、と考えるとと自分の方が上等だと思うからである。

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17 December

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

ブックレビュー再び。

タイトルが面白いのでアマゾンで衝動買い。
わかったつもり 読解力がつかない本当の原因
わかったつもり 読解力がつかない本当の原因
光文社新書
西林 克彦 (著)
読んでみたら国語教育系の本だった。
しかし、すべてのコミュニケーションにおいて応用できるのではないかと思った。

認知心理学をふまえながら、文章を読んで理解することには「わかる」「わからない」の他に「わかったつもり」という段階があり、それがより深い理解・読解のさまたげになっていると語る。
理解力・読解力を磨くには、「わからない」ことよりも、「わかったつもり」でいることの方が問題が大きいという。

例を示しながら読者に、自分が「わかったつもり」の状態になってもらい、その後例文から読み取れるもっと多くの情報を提示し、いかにいい加減に読んでいるかを実感してもらう。

非常に理論的で面白い本。

大学入試における現代文の客観式設問の難点やその運用の難しさ等にも触れ、なぜ現代文が難しいのかをもあざやかに分析してみせる。

ちょうどこれを読んでいるときにマンガ・モーニングで連載中の東大受験マンガ「ドラゴン桜」がこの本を引用していて非常に興味深かった。(2006年2号、3・4合併号)

「わかったつもり」というのは、この場合ある状態を示す造語。
後から考えて不充分だというわかり方を「わかったつもり」と呼んでいるだけで、いわゆる知ったかぶるというような状況のことではない。

で、この「わかったつもり」の状態は、「わからない部分が見つからない」という意味で安定している。
もし「わからない」のなら、すぐにその「わからない」点について情報を集めようとするはずだが、「わからない部分が見つからない」ので、その先を探索しようとしない。

これが「読む」という行為の中で発生すると、その読解、つまり深い理解の障害となりうるというのだ。

これは「読む」に限らず、すべてのコミュニケーションでいえることだろう。

話を一生懸命聞いている人は質問も多くなりがちである。
しかし、いい加減に聞いている人は「へえ」とか「はあ」とかの相槌で終わりである。
「へえ、そうなんだ」なんてもっとも無責任なリアクションで、明白な矛盾があってもそのままスルーしてしまう。
もし自分で考えながら話を聞いていれば「おかしいな」と思うようなことを納得して聞いてしまうのである。

書面など渡されて、大きい文字だけ拾い読みして「わかったつもり」になっていると、よく読んだら違うことが書いてあった、なんていうのもこの一種で、大きい文字だけ読んだ時点でもう疑問なく安定してしまうのである。

それがもし情報量の少ない、本来なら「わからない」状態になってもおかしくない状態であっても、脳は欠けてしまったパズルのピースを色々な思い込みやこれまでの経験から導き出してしまうという。
脳はそれを安定させるために矛盾をなくして理解しようとしてしまうらしい。
なるほど、早とちりの多い人はごく一部のキーワードだけで全体を勘違いして理解していることも多いが、そういうことであろう。

ともあれ、自分のような理屈教の信者の人々にはお勧めしたい本である。

ところで、面白かったのが「ドラゴン桜」にも引用された以下の文章である。
この文は一見しても何のことだかわからないが、あるものについて語った文である。
そのあるものが何なのかわかれば難なく読めるのだが、逆にここから導き出すのは意外と大変な作業である。

新聞の方が雑誌よりいい。街中より海岸の方が場所としていい。最初は歩くより走る方がいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい。小さな子供でも楽しめる。一度成功すると面倒は少ない。鳥が近づきすぎることはめったにない。ただ、雨はすぐしみ込む。多すぎる人がこれをいっせいにやると面倒が起きうる。ひとつについてかなりのスペースがいる。面倒がなければ、のどかなものである。石はアンカーがわりに使える。ゆるんでものがとれたりすると、それで終わりである。

たった一つのキーワードで、この文の疑問やもやもやがパーッと雲散霧消するさまは痛快である。

答えは以下の[Read more of this post]以降に示すので、何度かよく読んでからクリックされたい。

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12 December

わが子に教える作文教室

また清水義範でブックレビュー。

わが子に教える作文教室
わが子に教える作文教室
講談社現代新書
清水 義範 (著)

横浜までの出張の際、往復1時間半で読み終えた。
読みやすく、よくまとまった本。

週刊現代の連載コラムを1冊にまとめた本。
だから章立てごとにまとまりがあり、今回の自分のように一気に読まずとも区切って読むこともできる。

そもそも清水義範という人は、教育大学で国語の先生の訓練を受けた人であり、国語・日本語については一家言ある人である。
国語愛の熱い人である。

それでなのかどうなのかは知らないが、弟さんの経営する学習塾で、作文教室の先生をしていた事もある。
FAXを使っての通信添削である。
プロの作家の直接指導。なんて贅沢な。

で、その経験から、作文・文章教室モノを何作か発表している。

ちなみにこの講談社現代新書からもその作文モノが出ており、そちらは以前読んだ。
大人向け実用文書のヒントとしてはなかなか良かった。

大人のための文章教室
大人のための文章教室
講談社現代新書
清水 義範 (著)

が、この作家の良さは子供の作文指導に最大値として表れる。
どこかにやはり教育というものを考える心があるのだろう。

確かに子供のうちに学校で叩き込んでおかないと間に合わない。
昨今、幼少の国語教育を見直す活動が盛んだ。
あの子供たちが大人になったとき、今の若者はそのボキャブラリーの貧困さでやりこめられてしまうのではないだろうか。

清水義範が警鐘を鳴らすのはそんな社会の到来である。
みんな、もっと国語を大事にしましょうよと。
今の学校の国語教育はえてして作品論に多くの時間を割いているが、そんなことより読み書き、表現に力を入れるべきだ、と言っているような気がする。

ところで、いくら清水義範ががんばっても、この声が届かない大人がほとんどである。

おそらく世間の大多数の大人は自分が子供だった頃の学校教育を基準に「国語なんて勉強しても点数が上がらない」とか「国語はセンスだから勉強しても無駄」とか「国語は漢字だけしか勉強の効果がない」とか信じている。
そもそもそんな国語教育が問題なのだというところにまで行き当たることはない。

こんな地道な伝道だがどこまで世の中を変えうるのか。
そんな努力に僅かでも加担したいものである。

先の作文ひとつとっても、大人になっても勉強しようという心のある人はほっといても問題ないが、現代社会で問題なのは学ぼうという心のない人々である。

ささいな作文ひとつとっても、へたくそでも、相手に伝わらなくても気にしない人というのはいるものである。
いや、自分が作文がへたくそだと自覚しても、どう書いたらいいのか本を買って勉強するような人間ならまだいい。
世の中には「こまったなー」なんて言っているだけでおしまい、なんて人間がたくさんいる。
こういう人間は作文に限らず、万事そんな調子なのである。

で、ま、下流社会とかそういう話につながるわけだ。
困ったものである。
やれやれ。

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