Complete text -- "食感濫用と好き嫌い"

19 January

食感濫用と好き嫌い

最近、だいぶ市民権を得てきた「食感」という言葉だが、いま一つ意味が安定しないまま濫用あるいは乱用されている気がする。

一般的には「口当たり」「歯ざわり」「歯ごたえ」「口当たり」「のどごし」といった言葉を総合して「食感」と呼んでいるようだが、場合によっては「舌触り」「温度」といった意味合いも含まれるようだ。
食品業界などで使われていた専門用語が一般化した用語とのことで、TVなどで使われるようになってポピュラーになったらしい。
なるほどTVのグルメレポーターなどが貧弱な日本語力をカバーするのにもってこいの用語である。

新しい言葉なので、もちろん辞書にも載っていないことが多い。
ネットで検索しても、「食感」という言葉に違和感を感じるといったコメントが上位に来る。

簡単に表現するなら、「食感」とは、味以外の「カタカナの擬音・擬態語(オノマトペ)として表現できる食べ物の様子」であり、パリパリとかヌメヌメとかツルツルとかホコホコのことである。

残念なのは、それがよくわかっていないくせに気軽に「食感」なる言葉を使う連中が多いことである。
彼らは、好き嫌いの「嫌い」を表現するときに、「食感」を使うことが多い。

「納豆の匂いが嫌い」とか「納豆のぬるぬるした感じが嫌い」というよりも、「納豆の食感が嫌い」といった方が、シンプルでかつグルメっぽく聞こえるのがお好みなのだろう。

ちょっと前になるが、とある天然系、別の言い方をすれば「日本語と思考回路が不自由」な女性が、「玉ねぎが嫌い」というので、「玉ねぎのどんなところが嫌いなの?」と聞いてみたら「食感が嫌い」とのたまわった。
普通の大人なら知っていることだが、玉ねぎというものは、生と煮炊きしたものとはもちろん、切り方で食感が変わってしまう食いものである。
つまりこの女性、なぜ自分が玉ねぎが嫌いなのかが自分でわかっていないので、ちゃんと説明できないのである。もう、逝って良し。

だいたい、食べ物の好き嫌いなんざ、感覚的なものである。
見た目とか匂いとか、時々トラウマとかそんなものだ。
「生理的に無理」って言うのも本当は立派な理由なのである。
しかしながら、「嫌い」という発言に対し、「どうして嫌いなの?」と質問されてしまうのには理由がある。
その「生理的に無理」なところも含め、共感を得られていないからだ。簡単に言えば、説明不足なのである。

前述の女性でいえば、玉ねぎがあらゆる料理で風味のベースになっていることを踏まえれば、普段の生活で知らず知らずのうちに玉ねぎを食べているわけで、にもかかわらず「嫌い」と断定するものだから、受け手はその真意をはかりかねてしまう。
説明不足で共感を得られないわけである。
「生の玉ねぎが食べられない」とか、「玉ねぎの香りが苦手」とか、ややマイルドかつ具体的な表現をすれば理解を得られたかもしれないし、「形がなくなっていれば食べられます」とポジティブな表現をすれば受け手も納得がいく。

本来感覚的なものなんざ、どこまで行っても理解しあえるはずがない。
言葉を駆使してなんとか近いところまで連れてくるのは至難の業である。
そこで、お茶を濁そうと「食感が嫌い」なんてとんちんかんな言葉の使い方をすることが悲劇を招くのだ。
そもそも、その食感て何だよ、という話になる。
ここまで来たらもう中東問題も真っ青な泥沼である。

大人だったら、まずはこういった泥沼は避けて通るべきであろう。
いちいち説明をするのがめんどくさいとか、そういった無駄な論議をしたくないというなら、そもそもその衝突自体を避けなければならない。
「○○大好き」という発言に対し、「自分は○○が嫌いだ」等とバッサリ反論してはいけない。
無理やり食わされそうになったなら、ジンマシンが出たことがあって、極力避けているんですくらいにしておけばいい。
そもそも、一緒に○○食いに行こうといわれた時点で、ちゃんと○○以外のものが食いたいと代案を提示しなくてはならないのである。

かくも大人の世界は油断がならないものである。

00:00:00 | victor | | TrackBacks
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